一万年前ころ | 氷河期、シベリアと陸続きになっ ていたベーリング海峡を人類が渡 り、北アメリカ大陸に上陸。その後、今のカナダの地に最 初の人類が住みつく。カナダ先住民の起源。 |
AD1000年ころ | ヨーロッパからバイキングが現在のカナダに上陸 (現在のニューファンランド・ラブラドール州)。しかし定住はせず。
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16世紀-17世紀 | イギリ スとフランスが北米大陸を植民地にするため進出。イ ギリスは大西洋沿岸とハドソン湾周辺を領土に。フランス は、セントローレ ンス川、五大湖、ミシシッピ川に沿って領土を拡大(1667 年の北米地図)。 「カナダ」の語源は先住民の言葉(ヒューロン・イロクォイ語)の「カナタ」。「カナタ」とは「集落」とか「村」という意味。先住民が自分たちの 住んでいるところを示して「カナタ」といったところ、探険家ジャック・カルチェは「カナタ」をその地域の名前と思った。 |
1763年 | 長年の 英仏戦争にイギリスが勝利。パリ条約により、フ ランスの北米領土(現在のカナダの中心地)はすべてイギリスに割譲。しかし、イギリスの支配 の下、現在のケ ベック州を中心に、多くのフランス系住民がそのまま居住を続けた |
1776年 | [米] アメリ カ合衆国建国。北米イギリス領東岸13州が大英帝国から独立。 その後、アメリカの独立に反対していた人たち(大英帝国に忠誠を 誓う人たち)などがアメリカから大量にカナダに移民。現在のカナダ領内においてイギリス系住民が激増 する。 |
1812-1813年 | 英米戦争。実態は、現在のカナダとアメリカ合衆国との間の戦争。アメ リ カ合衆国の領土的野心が戦争の背景に。しかし、カナダ(英国)は防衛に成功する。(この戦争で、アメリカ大統領官邸が炎上。その復興に際し、外壁に白いペ ンキを塗ったことから、その後、ホワイトハウスと呼ばれるようになる。) |
1861-1865年
| [米] アメリカ合衆国で南北戦争。リンカーン大統領率いる北軍が勝利。 アメリカ合衆国は分裂を免れ、一つの連邦国家を維持する。 |
1867年
| カナダ 建国。7月1日、英領北アメリカ法が英国議会で成立し、北米にあったイギリス自治領がカナダ連邦として一つにまとまる。最 初は、オンタリオ 州、ケベック州、ニューブロンズウェック州、ノバスコシア州の4州で始まる(1867 年北米地図)。([日] この年、日本では「大政奉還」により徳川幕府が終焉。) カナダ建国は、アメリカ合衆国と異なり、大英帝国からの独立を意味しない。また自治権獲得という意味でもない。北米のイギリス自治領(すでに自治権を与え られ ていた)が大連合して統一政府を作った時をカナダ建国としている。 カナダ建国(自治領大連合)の背景には、連合して強大なアメリカ合衆国に対抗する目的があった。大英帝国も自治領の防衛を自治領自身に任せる 政策に転換し、自治領の大連合を承認した。
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1870年代 | カナダ連邦の拡大。1870 年、マニトバ州が参加し、また、ノースウェスト地方をイギリスのハドソン湾会社から買収。1871 年、大陸横断鉄道建設を約束に太平洋岸のブリティッシュコロンビア州をカナダ連邦に参加させることに成功。大西洋から太平洋までつながる大陸国家に。さらに、1873年、プリンス エドワードアイランド州がカナダ連邦参加。(1873 年北米地図) |
1885年 | カナダ大陸横断鉄道完成。大西洋から太平洋まで鉄道でつながる。 |
1914-1918年 | 第一次 世界大戦。大英帝国の一員としてカナダも参戦。多くの戦死者を出す。戦争で多くの犠牲者を出すことを通じ、国際社会において、カナダとして の自立意識 が高ま る。 |
1920年 | 国際連盟加入。 |
1922年 | [英、日] 日英同盟廃棄 |
1926年 | 主権国家へ。カナダ連邦に外交権が与えられる(英帝国会議におけるバルフォア宣 言)。 |
1929年 | ニューヨーク証券取引所の株価暴落。世界恐慌。カナダも大不況へ。 |
1931年 | 英国議会がウェストミンスター法を制定(バルフォアの宣言の成分化)。イギリスから法的に独立。(イギリスとは君主を共有する主権国家どうしの対等な関係になる。) |
1938年 | アメリカのルーズベルト大統領がカナダ防衛を約束。アメリカ合衆国との 軍事的な結びつきが強まり始める。さらに、アメリカと包括的貿易協定調印。 |
1939年 | 第二次 世界大戦勃発。カナダはドイツに宣戦布告し、第二次世界大戦に参戦。戦争による特需でカナダ経済は復活。 |
1941年 | 真珠湾攻撃。翌日、カナダは対日宣戦布告。戦争中、日系カ ナダ人は強制収容所へ。 |
1945年 | 国際連合に加盟。日本のポツダム宣言受諾により第二次 世界大戦終戦。 2つの世界大戦を通じて、カナダは大英帝国の一員から北米国家へと変貌。イギリスとの結びつきが弱くなり、アメリカ合衆国と の結びつきが強くなる。 |
1949年 | ニューファンドランド州がカナダ連邦に参加。 NATOに加盟。 |
1950年 | 朝鮮戦争。カナダも国連軍として参加。 |
1951年 | サンフランシスコ対日講和条約。カナダも調印。 |
1956年 | スエズ危機。カナダのピアソン外相が国連緊急軍の派遣による平和維持を 提案。ピアソン は翌年ノーベル平和賞受賞。 その後、国連の平和維持活動はカナダの国策になる。現在までに、ほぼすべての国連平和 維持活動にカナダは参加している。
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1960年代 | フランス系住民が多数を占めるケベックにおいて、「静かな革命」と呼ばれる社会改革が進行。社会改革と 経済発展を通じて、ケベックの人々は自 信をつけ、ケベックナショナリズムが高揚する。 |
1963年 | ケベックの独立を主張する過激派がモントリオールで爆弾テロ。 ピア ソン首相(自由党)就任。二文化二言語調査委員会設立。 |
1965年 | カナダ国旗(メイプル リーフ・フラッグ)の制定。正式に国旗を制定する以前は、Red Ensign と呼ばれる旗を用いていた。議論の結果、新国旗にはユニオンジャック(イギリ スの象徴)をつけない物が選ばれた。 |
1967年 | カナダ建国100周年。各地で大きなイベントが開催される。そのイベン トの一つのモントリオー ル万国博覧会を訪れたフランスのドゴール大統領が、演説中に「自由ケベック万歳 ('Vive le Québec libre!)」と叫ぶ。これがケベックのナショナリズムを扇動する行為だとして、カナダ 政府から大ひんしゅくをかう |
1968年 | トル ドー首相就任(自由党)[自由党党首に選出された時の様子]。トルドー首相を熱狂的に支持する国民が多数出現し社会現象に(Trudeaumania) 。 |
1969年 | 公用語法制定。フランス語と英語とがカナダ連邦における対等な公用語に なる。 |
1970年 | 十月危機。ケベック独立を主張する過激派がモントリオールで政府高官を 人質にとり立 てこもる。ト ルドー首相は、戦時措置法(戒厳令)を発令し軍隊を出動させ鎮圧。 このとき、トルドー首相が戒厳令を発令したことに対する是非は、いまだにカナダで論争があるようだ。しかし、結果的に、その後のケベックの独立運動は民主的な方法へと変化する。 |
1971年 | トルドー首 相、多文化主義政策を 発表。 二言語・多文化主義はケベックの分離独立を牽制し、一つのカナダを維持する政治的ねらいがあった。しかし、ケベックの分離独立運動を完全に沈 静 化させることはできなかった。
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1974年 | ケベック州はフランス語のみを州の公用語とし、英語使用を制限する。 |
1976年 | カナダの(ケベック州)モントリオールで夏季オリンピック開催。 |
1980年 | ケベック州において連邦からの分離独立の是非を問う州民投票。トルドー 首相は独立反対への投票を呼びかける。結局、分離独立への反対が60%で否決。 |
1982年 | 憲法 (1867年の英領北アメリカ法)をイギリス議会からカナダ議会に移管。さらに、国民の権利と自由に関する新たな章を加え、新カナダ憲法 (1982年憲法)を制定。カナダは名実ともに完全な独立国家となる。しかし、ケベック州は新憲法への批准を拒否した。 |
1984年 | トルドー首相が政界を引退。 マ ルルーニー首相就任(進歩保守党)。 |
1987年 | ケベックに特別な地位を与えることを明記した憲法修正案を、首相と各州 の州首相との間 で合意。しかし、トルドー前首相の反対などもあり(トルドーは政界引退後もカナダのオピニオンリーダの一人であった)、一部州議会の承認が得 られず修正案は破棄される。 |
1988年 | カナダのカルガリーで冬季オリンピック。 韓国ソウルで夏季オリンピック。ベン・ジョンソン(カナダ代表)が陸上男子100メートルで9秒79の驚異的な世界新記録で金メダル。しかし、その2日 後、 薬物検査で陽性反応。金メダルを剥奪され記録も抹消される。 |
1989年 | アメリ カ合衆国との自由貿易協定発効。アメリカへの経済的依存度がますます強まる。 GST(連邦政府の消費税)導入。 |
1991年 | ケベック州に特別な地位を与える新しい憲法修正案。しかし、その後の国 民投票で否決。 |
1993年 | カナダ初の女性首相となるキャ ンベル首相就任(進歩保守党)。しかし、その数ヵ月後、進歩保守党は連邦議会 総選挙で歴史的大敗を喫す(進歩保守党は過半数の169議席から2議席に激減。キャンベルも落選。)。クレ ティエン首相が就任(自由党)。 |
1995年 | ケベック州において連邦からの分離独立の是非を問う州民投票。独立反対 が50.6% (236万2,648票)、 賛成が49. 4%(230万8360票)。わずかな差でかろうじて否決される。 |
1998年
| 連邦政府、赤字ゼロの均衡予算実現。 |
1999年 | ヌナブット準州設立。(イヌイットを中心とした自治区。) |
2000年 | "I am Canadian: Joe's Rant" がTVCMで放映され、大ヒット。 トルドー元首相永眠。 |
2001年 | 9月 11日。アメリカ合衆国のニューヨークとワシントンにおいて、民間航空機を用いた大規模自爆テロ。その後のアフガニスタン戦争にカナダも参戦。 |
2002年 | 1月初旬、工藤哲洋がカナダへ。 カナダ、京都議定書を批准。 |
2003年 | カナダ はイラク 戦争に不参加を表明。国連安保理の決議が得られなかったことを理由にクレティエン首相が決断する。しかし、その後、アメリカ合衆国との政治的関係がかなり冷え込む。 クレティエン首相が引退し、同じ自由党のマー ティン首相が就任。 |
2004年 | 自由党のスポンサーシッ プスキャンダルが発覚。その後の連邦議会総選挙において、マーティン首相率いる自由党は第一党を維持するものの、過半数を獲得でき ずに少数与党に。 アメリカ合衆国でブッシュ大統領が再選。ブッシュ大統領がカナダ初訪問。 |
2005年 | 2月末、工藤哲洋がカナダより日本に帰国。 アメリカ合衆国が計画する北米ミサイル防衛構想にカナダは不参加を表明。カナダで同姓婚を認める法律が成立。 11月、内閣不信任案が成立し、マーティン首相は議会を解散。 |
2006年 | 1月、総選挙で保守党が下院の最大議席を獲得し勝利。自由党のマーティン首相が退陣し、保守党のハーパー首相の誕生。1993年以来の政権交代。 5月(工藤哲洋がカナダ滞在中に)、トロントでテロの計画が発覚し首謀者が逮捕される(テロは未遂に終わる)。 |
2007年 | 5月、ケベック州議会選挙で自由党が少数与党に。独立を主張するパルティケベコアも大きく議席を減らす。新勢力のアクションデモクラティクが躍進し第一野党になる。 9月、カナダドルがアメリカドルと同じ価値になった($1 カナダ=$1 US)。実に約31年ぶり。2002年に、1カナダドル=0.62USドル、にまで下落したが、最近の石油価格上昇の影響でカナダドルの価値があがっていた。 |
2008年 | 10月、総選挙。ハーパー首相引きうる保守党が16議席を伸ばし勝利。第2党の自由党は19議席減の敗北。しかし、第1党の保守党は過半数には及ばず引き続き少数与党として政権を担当。 11月下旬、野党の3党首(第2党の自由党、第3党のブロッコケベッコア、第4党の新民主党)は内閣不信任決議案を提出する事で合意。3党の議席を合わせると過半数に達する。12月4日、ハーパー首相はミカエル・ジャン総督に議会の休会を要請。総督は翌年1月26日まで議会を休会することに合意。その結果、不信任案の提出も延期された。不信任案の提出確実という段階での議会の休会はきわめて異例の出来事。 9月の金融危機以来カナダドルは大きく下落し、2008年末で1カナダドルが約74円前後の水準。1年くらい前の6割ほどの� ��値に。米ドルに対しても1カナダドルが約0.8USドルにまで下落している。 |
2009年 | 7月、天皇皇后両陛下カナダご訪問
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2010年 | 2月、バンクーバー冬季オリンピックが開催される。 5月、ロンドン(オンタリオ州)で磁場と星形成に関する研究会が開催される。 6月、トロント近郊でサミット(主要国首脳会議)が開催される。 10月、 カナダの総督に David Lloyd Johnston 氏が就任した。
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