2012年5月30日水曜日

2010年04月のブログ|もったいないを大切に☆ラビの毎日記 東京都江戸川区 リサイクルショップ愛品館 ☆出張買取・お見積り無料☆ まずはご連絡を!


♪ リサイクルショップ ♪ 愛品倶楽部 柏店 ♪

ここ2回立て続けに

ナノケアのご紹介で、

女性は"エステ"に興味があるって

ことがわかったので、

今回もそれ関係のご紹介о(ж>▽<)y ☆

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2012年5月19日土曜日

天つゆと自己嫌悪と楽しすぎるアイダホ@ツイン・フォールズ - ダニー食堂


職場で、寿司しか頼んでないお客さんに天つゆを持ってくるよう頼まれたの。

チリペーストよりはマシよね、緑茶に醤油より100倍まともよね・・・・などなど、必死に自分の中で言い訳をしながら頼まれるがままに、天つゆを運んだ自分が少し嫌い・・・。

お金を稼ぐってこういう事です、はい。

さてさて、今回の旅行の備忘録最終回。

アイダホ州のツイン・フォールズという町に入ってすぐ、車窓から眼下に入ったコレ。

写真には写っていないけど、川沿いにゴルフコースなんかがあって、なんとも美しいわけ。

2012年5月17日木曜日

日本の刑務所 - Wikipedia


本項では日本の刑務所(にほんのけいむしょ)について解説する。

日本では、刑務所は何らかの法令に反する行為に及び(または状態に達し)、裁判の判決により身体拘束を伴う刑罰(懲役、禁錮など)が確定し、その刑に服することとなった者を収容する施設のことをいう。日本では法務省の施設等機関とされ、同省矯正局が所管している。

なお、全国の刑務所のうち、医療的な処置が必要な者を収容するために設けられた刑務所を医療刑務所いりょうけいむしょ)と呼び、2007年5月から開始されたPFI方式を採用して新設される刑務所は、「社会復帰促進センターしゃかいふっきそくしんセンター)」と呼ばれる。また、飲酒運転など重大な交通違反や交通事故を起こし、禁固または懲役の刑を受けた者を収容する刑務所を交通刑務所こうつうけいむしょ)と呼ぶことがある(市原刑務所(千葉県市原市)・加古川刑務所(兵庫県加古川市)など)。詳しくは収容分類級を参照のこと。

刑務所、少年刑務所及び拘置所を総称して「刑事施設」という。このうち、刑務所及び少年刑務所は、主として受刑者を収容し、改善更生、社会への円滑な復帰などを目的とするさまざまな処遇を行う施設であり、拘置所は、主として刑事裁判が確定していない未決拘禁者を収容する施設である。刑務所及び少年刑務所では、受刑者への指導を通じてさまざまな処遇を行っており、2006年(平成18年)現在、全国に67庁(その他にも若干の支所がある)が設置されている。

拘置所では主として勾留中の被疑者・被告人を収容し、これらの者が逃走したり、証拠を隠滅したりすることを防止するとともに、公平な裁判が受けられるように配慮すべきとされており、2006年現在では全国に東京拘置所など7庁が設置されている。なお、拘置所7庁の他に、全国の刑務所の下に「拘置支所」が多数置かれている。2006年現在、全国の刑務所、少年刑務所及び拘置所(それらの支所を含む。)においては約16,000人の刑務官が勤務している。

2012年5月15日火曜日


</head><body bgcolor="#ffffcc" text="#000000" link="#99cc00" vlink="#cccc00" alink="#66ffcc" background="y1b.gif" id="readabilityBody" > <p align="center"><b>平成16年度提出卒業論文</b></p><p><span>幼い子を抱えた新規移民によるエスニックネットワークと近隣ネットワークの利用<br/>−カナダ・トロント、South Parkdale地区の事例−</span></p><p>日野智予</p> <p align="left">要旨 グローバル化の進展により人・物の流れは益々活発になったと言われて久しい。それは,建国当初より移民を受け入れ,言わば移民によって国家が成り立っているカナダにおいても同じである。カナダでは移民受け入れの長年の蓄積により,移民が移住先での新生活へよりスムーズに適応できるように様々な支援やサービスが提供されている。そうした中で,本稿では幼い子供を抱えた新規移民<sup>1)</sup>家族に対してどのような支援が提供されているのかということと,それらの支援に対する情報を彼らがどのように入手し,どのように利用しているのかということを,トロント市South Parkdale地区での事例を紹介しつつ,その傾向を示すことを試みた。</p><p>キーワード:新規移民,子育て,エスニックネットワーク,近隣ネットワーク,South Parkdale</p> <p class="MsoNormal"><p> </p></p> <p class="MsoNormal">目次</p> <p class="MsoNormal">T はじめに</p> <p class="MsoNormal">1) 問題の所在</p> <p class="MsoNormal">2) 調査対象地域の概要</p> <p class="MsoNormal">3) カナダの子育て事情</p> <p class="MsoNormal">U 調査施設及び調査方法</p> <p class="MsoNormal">1) 子育て支援提供施設及び団体</p> <p class="MsoNormal">(a)  Community Parent Outreach Program(コミュニティキッチン)</p> <p class="MsoNormal">(b)  Parenting Centre</p> <p class="MsoNormal">(c)  Creating Together</p> <p class="MsoNormal">2) 調査方法と調査協力者</p> <p class="MsoNormal">(a)  調査方法</p> <p class="MsoNormal">(b)  調査協力者の基本的属性</p> <p class="MsoNormal">V 移民の特性と子育てネットワークの関係</p> <p class="MsoNormal">1) 子育て支援施設を知った経緯</p> <p class="MsoNormal">2) 子育てに関する疑問や悩みの相談相手</p> <p class="MsoNormal">3) ヘルスケアの情報源</p> <p class="MsoNormal">4) 英語の習得度</p> <p class="MsoNormal">(a)  英語の習得度と子育て支援施設に関する情報</p> <p class="MsoNormal">(b)  英語の習得度と相談相手</p> <p class="MsoNormal">5) 移民形態の相違</p> <p class="MsoNormal">(a)  移民形態と子育て支援施設に関する情報</p> <p class="MsoNormal">(b)  移民形態と相談相手</p> <p class="MsoNormal">W 子育てネットワークの構築,利用に影響を与えるもの</p> <p class="MsoNormal">1) 移動距離の制限</p> <p class="MsoNormal">2) 経済力</p> <p class="MsoNormal">終わりに</p> <p class="MsoNormal">1) まとめ</p> <p class="MsoNormal">2) 今後の課題</p> <p class="MsoNormal">T はじめに</p> <p class="MsoNormal">1)問題の所在</p> <p class="MsoNormal">シカゴ学派は新規移民は移民当初,都市部の伝統的に移民を受け入れてきた地域に居住し,経済基盤を確立すると郊外に移住し,インナーシティは新たな移民に提供される。というモデルを提示した。しかし,近年,トロントでは新規移民の居住パターンはこのモデルほど単純なものではなく,新規移民の郊外居住が進んでいる。しかし,依然として多くの定住化への支援サービス提供施設は伝統的に移民を受け入れてきた地域に多いため(Marie Truelove 2000),近年のトロントの新規移民は,各種の支援を容易に受けることができていないと考えられる。本稿では伝統的に移民を受け入れてきたSouth Parkdale地区で,幼い子どもを抱えた新規移民家族が子育てネットワークとしてどのようなネットワークを利用しているのか,ネットワーク構築に関して支援提供施設がどのような役割を果たしているのかを考察した。近年新規移民が居住するようになった地域では,近隣ネットワークの構築に寄与する施設やイベントがあまり,もしくは全くないことから,South Parkdale地区のような長年移民を受け入れてきた地域とは違った子育てネットワークの構築,及び利用が行われていると考えられる。</p> <p class="MsoNormal">South Parkdale地区のように移民受け入れの蓄積があり,子育て支援を含む移民の定住化を支援するサービスが充実した地域から,どのようにサービスを提供するべきかを学ぶと同時に,近年新規移民が増えてきた郊外から,サービスが不足しているとどのような問題が起こりうるのかをみることは,カナダのみならず日本のように移民の受け入れ経験に乏しい地域において新規移民に対する支援のあるべき姿を模索する上で,有益であると思われる。</p> <p class="MsoNormal"><p> </p></p> <p class="MsoNormal">2)調査対象地域の概要</p> <p class="MsoNormal">本稿で調査対象地域として選んだSouth Parkdale地区は、カナダの経済・社会・文化の中心都市の一つであるトロント市<sup>2)</sup>の南西,オンタリオ湖に面した所に位置する(図1)。</p> <p class="MsoNormal">建国以来多くの移民を受け入れてきたカナダの中でもその経済力ゆえにカナダへの移民の約4分の1以上を受け入れ,人口の半数近くを海外出生者で占めているトロント市の中で,South Parkdale地区は第二次大戦以後多くの移民が流入し,人口に占める移民の割合,中でも新規移民の割合が他の地区に比べて高い。人口21810人の内12100人を移民が占め<sup>3)</sup>,そのうちの31%が1996〜2001年に移民してきた新規移民で,1991年以降に移民してきた者と合わせると53%に達し,この地区の人口のおよそ30%は1991年以降に移民してきた人々で占められている(図2)。</p> <p class="MsoNormal"><span lang="EN-CA"></span></p> <p class="MsoNormal">図1<p> </p></p> <p class="MsoNormal"><span lang="EN-US"></span></p> <p class="MsoNormal">歴史的にはSouth Parkdale地区は1889年に最初の家が建って以来,イングランドやスコットランド,アイルランド出身の中上流階級の人々が定住し,1920年頃には少数の中国,イタリア,ドイツ,ポーランド出身者が登場するものの,トロントのほかの地区同様,長い間アングロサクソン系の住民が多くを占めていた。ところが1950年代半ばから1960年半ばにかけて建設されたGrdiner Expresswayによって,オンタリオ湖から分断された地区は「湖畔の魅力的な住宅地」という性格を失うと共に,多くの住宅が取り壊されそれまでの居住者は地区外へ移り住んでいった。また,中上流階級の流出に伴い取り壊された住宅地には,アパートが建設され新規移民に低家賃の住居が提供されることになった。その結果,東ヨーロッパ,特にポーランド出身者が増加し,その後1970年代後半にはトロントの中でもポーランドコミュニティの中心地となる程,大量のポーランド移民が流入するようになった。1961年センサスではSouth Parkdale地区を含むParkdale地区の全人口の11%にも達し,いまだにSouth Parkdale地区の人口の7%を維持している。1950年代にはポーランド出身者とほぼ同程度の人口を占めていたウクライナ出身者は,1971年センサス時点では半減したものの,第二次大戦後の大量移民としてポーランド出身者同様この地区に大きなインパクトを与えた。</p> <p class="MsoNormal">1960年代には,フィリピン出身者の移民も目立ってくる。彼らの多くは医師や看護師で,アメリカ経由で移民してきた。しかし,医師の多くはカナダでは自分達の医師の資格がそのまま通用しないことに気付き,アメリカに戻っていった。ただ,看護師についてはカナダでの看護師不足からマニラ大学へ募集をかけたことと,1965〜1966年は家族呼び寄せに関する条件が緩やかで職がなくてもスポンサーになれたことなどが影響して,この時期に2000人規模の移民が押し寄せた。しかし,フィリピン出身者の多くは移民して数年はこの地区のアパートに居住したが,その後郊外に家を買って移り住んでいく者が多かったことと,彼らの英語への高い適応能力からか,フィリピンコミュニティを形成するには至らなかった。</p> <p class="MsoNormal">1970年代には,アングロサクソン系,ポーランド系に続く第三の波として,インド出身者が増加してくる。その後,2,3百人規模のギリシャ出身者やリトアニアやユーゴスラヴィア,チェコスロバキア(当時)といったスラブ系の移民がやってきて,この地区の民族的多様性が増した。そして,近年は図3や図4に見られるような地域からの移民を受け入れており,1996年から2001年にかけてはアジア出身移民の受け入れが顕著である。</p> <p class="MsoNormal"><span lang="EN-US"></span></p> <p class="MsoNormal"><span lang="EN-CA"></span></p> <p class="MsoNormal">3)カナダの子育て事情</p> <p class="MsoNormal">South Parkdale地区において,新規移民がどのような子育て支援を利用し,それらの情報を何を通して得ているかを見る前に,本節では簡単にカナダの子育てを取り巻く環境について紹介しておきたい。</p>

2012年5月14日月曜日

ラテンアメリカ文学 - Wikipedia


ラテンアメリカ文学(ラテンアメリカぶんがく)とは、ラテンアメリカ圏(メキシコ、西インド諸島以南のアメリカ大陸)で書かれた、および出身者の文学。おもにスペイン語またはポルトガル語で書かれている。日本では主にポルトガル語圏であるブラジルを除いたスペイン語圏の文学を指すことが多い。中南米文学イスパノアメリカ文学とも。トリニダード・トバゴ出身のノーベル賞受賞者V・S・ナイポールやデレック・ウォルコットなど、英語で執筆する作者は、ラテンアメリカ人の作家とは見なされない。おもに20世紀後半、ラテンアメリカ文学の特徴とされるマジックリアリズムの傾向によって世界的に注目され、最も高い境地に達したと評されている。

目次

  • 1 本稿での範囲
  • 2 歴史
    • 2.1 前史~ラテンアメリカの神話・伝説・昔話
    • 2.2 植民地時代の文学~先住民の文化とヨーロッパ文化との出会い
    • 2.3 「モデルニスモ」(近代主義)の勃興と隆盛
    • 2.4 「後期モデルニスモ」の詩と現代詩の発展 ~ボルヘス、ネルーダ、レイエス、パス…
    • 2.5 ラテンアメリカ文学ブーム
    • 2.6 1970年以降~新たな作家の輩出
  • 3 主な作家
    • 3.1 ノーベル文学賞受賞者
    • 3.2 国別の主な作家
      • 3.2.1 アルゼンチン
      • 3.2.2 ウルグアイ
      • 3.2.3 エクアドル
      • 3.2.4 エル・サルバドル
      • 3.2.5 キューバ
      • 3.2.6 グアテマラ
      • 3.2.7 コロンビア
      • 3.2.8 チリ
      • 3.2.9 ニカラグア
      • 3.2.10 パラグアイ
      • 3.2.11 ブラジル
      • 3.2.12 ペルー
      • 3.2.13 ベネズエラ
      • 3.2.14 ボリビア
      • 3.2.15 メキシコ
  • 4 関連項目

[編集] 本稿での範囲

本稿では、「メキシコ、西インド諸島以南のアメリカ大陸の中で、スペイン語もしくはポルトガル語を公用語とする国」出身の作家と文学。つまり「利用言語が英語(アンティグア・バーブーダ、ガイアナ、グレナダ、ジャマイカ、セントビンセントおよびグレナディーン諸島、セントクリストファー・ネイビス、セントルシア、ドミニカ国、トリニダード・トバゴ、バハマ、バルバドス、ベリーズ)、オランダ語(スリナム)、ハイチ語とフランス語(ハイチ)以外の国」出身の作家と文学についてを対象とする。

対象国は以下の通り。

アルゼンチン、ウルグアイ、エクアドル、エルサルバドル、キューバ、グアテマラ、コスタリカ、コロンビア、チリ、ドミニカ共和国、ニカラグア、パナマ、パラグアイ、ブラジル、ベネズエラ、ペルー、ボリビア、ホンジュラス、メキシコ(五十音順)

2012年5月12日土曜日

LOAD ERROR|都竹宏樹オフィシャルブログ「ジョニーは本名ではありません」Powered By Ameba


長年使ってきたMDコンポ

MDの読み込みが悪くなって数年。今までどうにかクリーナーで頑張ってきましたが…

ついに壊れました…。

これを機にいい加減MDから卒業します!

もういいよね?(笑)

2012年5月11日金曜日

Boise On The Web ライブラリー


ボイジー滞在日記(その後) - Boise on the Web ライブラリー

ボイジー滞在日記(その後)

98/08/25 運転免許の切替に挑戦

アメリカから持ち帰った、最大の「自分自身へのお土産」は、言うまでもなく「運転免許」です。 せっかくアメリカで安い費用で運転免許を獲得したのですから、これを日本の免許に切り替えない手はありません。
そうは言っても、アメリカでレンタカーしか運転したことのない私にとっては、日本の道路をドライブするのは、やはり不安です。 とりあえず、国際運転免許証のおかげで当面の運転資格はあるので、帰国後しばらくは実家で過ごし、その間に父の車で運転の練習をさせてもらいました。

いざ、試験場へ

大阪府の光明池運転免許試験場に電話で切替手続きの方法を問い合わせたところ、切替手続きの手順は「書類審査および適性検査」「知識確認」「技能確認」の3段階で、最初の1日で知識確認まで済ませることができて、技能確認は後日指定日に行われるとのこと。 とりあえず、申請に必要な書類をとりまとめて、8月25日の午前に、光明池に出向きました。

書類審査、適性検査(視力検査)は問題なくパス。 そのあと、事務室に招き入れられ、隅っこの机で知識確認の問題に解答しました。 イラストを用いた正誤式の問題が10題、そのうち7題以上正解で合格です。 ただし、光明池試験場では、知識確認は原則として免許を取った国の言語で受けることになっており、問題文は英語で書かれていました。 問題はとてもやさしく、あっさり合格しました。

マニュアル車は一度も運転したことがないので、免許の種類は「オートマチック限定」を指定しました。 また、アメリカでの運転経験が1年に満たないため、切替後の日本の免許に「初心者設定」がなされ、切替後1年間は「わかばマーク」を表示しなければならないとのことです。

今日のところは、手続きはここまで。 およそ2週間後の9月8日午前に実技確認の予約を入れておきました。

実技確認の狭路走行で脱輪!

9月8日、朝8時頃に試験場に行き、実技確認コースの下見をしました。
父の車でひととおりの練習はしているので、外周とか右左折は大丈夫。 問題は狭路走行、すなわち「S字」と「クランク」です。
コースを歩いてみると、S字もクランクも、道幅は試験車の幅の4割増程度で、「狭い!」という印象を受けました。 こんな狭いコースを走る技術など、アメリカでは必要になろうはずもなく、全く初めてのチャレンジです。

受付を済ませて待合室に入ると、最初にビデオを使った説明、それから試験官によるコース説明と諸注意を受けました。
外国免許切替の人は8人ほどで、そのうち4人ほどがオートマチック。 私は張り切って最初に受付をしたため、最初の番でした。

少し緊張気味に、試験車の運転席に乗り込みました。 助手席には試験官、後部座席には次の順番のアジア系外国人を乗せて、おそるおそるコースに出ていきました。
最初の外周は、特に問題なくクリア。
コースの内側に入り、第一の難関、S字に入るところで、最初の失敗。 S字へは左折で入るのですが、入口で左に寄りすぎて、内輪差のせいで入れなかったのです。
しかたなく、切り返しをしてなんとかS字に進入。 そのあとは、出口までスムーズに進みました。

ほっとしたのも束の間、次は第二の難関、クランクが待っています。
こんどは、左折での進入はクリア。 すぐ先に右への屈曲があるので、道の左端をクリープで進み、「このへんでいいかな」と、一気に右にハンドルを切ったのですが…
右の後輪が縁石に引っかかってしまいました。 またしても「内輪差」です。
何回か切り返しを試みたのですが、それでも脱出できません。
ついにあきらめて、アクセルを踏み込んで縁石を乗り越えて通過。 当然、その時点で「試験中止」です。
ここから先は合否と関係ないので、開き直って次の左屈曲にトライ。 こんどはなんとか切り返し1回で通過できました。 クランクを抜けたら、あとはスタート地点へ直行です。

試験官から実技確認日再指定の用紙を受け取って、窓口へ。 今回の失敗にめげずに、2週間ほど後の9月22日午前に次の予約を入れておきました。

嵐の中での再試験

2週間後の試験を黙って待っていてもしかたありません。 敬老の日の休みを利用して実家に帰省し、父の車で再び運転の練習です。
考えてみたら、日本で教習所に通ったこともなく、道路も駐車場も広いアメリカで運転を覚えた私に、いきなりあんな狭い道を通れといわれても、無理に決まっています。 そういうわけで、「前回のは練習、次が本番」と開き直って、気楽に次の試験を待ちました。

22日朝、台風が近づいていて雨模様の中、光明池に赴きました。
前回と同じように、ビデオでの説明と試験官の注意を受けたあと、試験が始まりました。 だいぶ雨が激しくなってきましたが、試験は予定通り行うとのことです。
今回は外国免許切替のオートマチックは4人で、しかも全員が再試験。 要するに、今日はすでに不合格になった人ばかりを集めた「追試の日」なのです。 ああ、やっぱりみんな一度は落ちるんだ、と知って、気が楽になりました。
今回は私は2番目。1番目は前回私の試験に同乗したアジア系の外国人で、こんどは私が後部座席に同乗します。 前回は「最初」ということで、けっこう緊張したのですが、今回は前の人の「見学」ができる分だけ、やりやすくなりそうです。
彼は外周も狭路走行もそつなくこなし、めでたく合格。 そのあと、私は運転席に移り、後部座席には次の順番の、韓国で免許を取ったという日本人女性が乗ってきました。

激しい雨の中、ワイパーを動かして試験コースへ。
最初の外周は問題なし。 S字の入口もすんなり入り、慎重にS字を走っていきましたが、こんどは途中で内側の縁石に乗り上げてしまいました。 すぐに止まったので、減点はされるものの試験は継続。 落ち着いて後退し、リカバーしました。
さて、いよいよ問題のクランク。 前回は内側の縁石に引っかかったから、今度はいっそのこと外側の立体障害物にぶつけてみようではないですか、という気持ちで、最初の右屈曲で、ぎりぎりまで前に進んでから右にハンドルを切りました。 そして、おそるおそるクリープで進んでいくと… ぶつからないんですね、これが。 ちゃんと外側は障害物に触れずに通過、もちろん内側は余裕でクリアです。
一つ目の成功に意を強くして、次の左屈曲にトライ。 こんども、めいっぱい外側を通ってみると、あっさり切り返しなしで通過。 なんだ、やればできるんだ、と気をよくして、残りのコースを走破しました。

そんなわけで、今回はめでたく合格。 午後に写真撮影が行われ、免許証が交付されました。 有効期限の地色が緑、「初心者」の印です。
いよいよ台風が近づいてきて風雨が激しくなる中、真新しい免許証を手に、光明池をあとにしました。

99/03/24 ボイジー「取材」旅行記

ボイジー滞在を終えて帰国してから8ヶ月後の99年3月、再びボイジーを訪れることになりました。
訪問の目的は、ひとつは、昨年も参加したボイジー州立大学での研究集会 「Boise Extravaganza in Set Theory」(BEST Conference)に出席するため、そして、もうひとつは、Boise on the Web内の「ボイジーの観光・ドライブガイド」を作成するための「取材」です。

Boise on the Webを作り始めたときから、ゆくゆくは「観光ガイド」のようなものを載せたいと思っていました。
というのは、アイダホ州に関する日本語の観光情報というのはこれまで皆無に等しく、「地球の歩き方」でさえ、アイダホ州については一切触れていないからです。
とはいえ、私にしてもボイジーに滞在していたのは10ヶ月ほどで、それほど多くを知っているわけではありません。
ですから、ガイドを作るためには、それなりの「取材」がぜひとも必要です。
そこで、とりあえず知っている情報だけで「暫定版」のガイドを作成し、ボイジー滞在の大先輩、さちこさん(日記1月28日参照)にメールでアドバイスをお願いしました。 さちこさんは、私が帰国する少し前に帰国していましたが、観光ポイント、レストラン、ドライブコースなど、たくさんの情報をメールで提供してくださいました。


あわただしい旅立ち

今回のボイジー訪問は、さまざまな事情により、とても窮屈な日程になってしまいました。
BEST Conferenceの会期は、26日(金)から28日(日)までの3日間。
その後は、4月1日付で北海道北見市に就職することが決まっていたため、31日中に北見に行かなければなりません。 それから逆算すると、ボイジーを29日午前に出発、30日午後に成田に到着、東京で1泊して31日に空路で女満別へ、という帰国スケジュールになり、Conferenceの後には全く余裕がとれません。
出発前はというと、それまで住んでいた堺市のアパートを引き払い、引越荷物を発送しなければならず、こちらのほうも、あまり早められません。
結局、24日に成田から出国、サンフランシスコ経由で同日午後ボイジー着という出発スケジュールが固まり、なんとかConference前に1日だけフリータイムを捻出しました。

24日、大阪から陸路で成田空港へ行き、リニューアルオープンしたばかりの第1旅客ターミナルで出国手続きを済ませました。 海外渡航はこれで5回目ですが、過去4回はすべて関西空港利用。 成田からの出国は初めてです。
17時、ユナイテッド航空852便で、サンフランシスコへ出発しました。
隣の席にすわったのは、一人旅の日本人の青年。 話を聞くと、なんと、彼の行き先も私と同じボイジーでした。 アイダホ州に留学中の友人を訪ねるとのこと。 まさに「奇遇」です。
1回目の機内食を食べ終わると、映画も見ないで就寝体制へ。 たった5日間の短いボイジー滞在で最大の「取材」成果をあげるためには、「時差ぼけ」などしていられません。

同日朝9時頃、サンフランシスコに到着。 国内線ゲートに近いカフェテリアで、隣席の青年と朝食をご一緒しながら、ボイジー行の飛行機の出発を待ちました。
12時頃、ボイジーに向かって出発。 国際線での寝不足もあって、水平飛行にはいるとすぐ眠りに落ちてしまい、飲み物のサービスを逃してしまいました。
1時間半ほどで、スネーク川の峡谷を越えて、ボイジーの上空へ。 今までの経験では、ボイジーの空港へは東側から進入するのが常でしたが、今回は風向きの関係か、大きく旋回して西側からのアプローチ。 左手に市街地の風景を見ながら、滑走路に滑り込みました。

バゲージクレームで荷物を受け取った後、隣席の青年と別れ、レンタカーを借りてボイジーの町へ。 ひさびさのアメリカでの運転とあって、左ハンドル車には少しとまどいましたが、すぐに勘を取り戻しました。
まずは、ボイジー州立大学に隣接するモーテル「University Inn」に行き、チェックイン。 そのあと、さっそく数学・計算機科学科に行き、TomekやJoanna、Marionたちに挨拶しました。
その日の夜は、Tomek夫妻が私を家に夕食に招いてくれました。

ツインフォールズへまっしぐら!

翌25日、滞在中たった1日の「終日フリータイム」。 午前中はツインフォールズへのドライブ、午後はボイジー市内の取材に費やすことにしました。
ツインフォールズへは、ボイジーから東へおよそ130マイル(200km)、フリーウェイ経由で片道2時間ほどです。 さちこさんが「ドライブコースにぜひおすすめ!」と教えてくれたので、滞在中にぜひ行きたいと考えていました。

朝7時頃にモーテルを出発し、まずは市内のアルバートソン公園を散歩。 さまざまな野鳥の集まるサンクチュアリで、バードウォッチングには最適です。
8時頃、空港近くからI-84フリーウェイに入り、一路ツインフォールズへ。 ボイジーの町を離れると、そこから先は、どこまでも広がる枯草色の荒野の中を行きます。 アクセルを思い切り踏み込み、制限速度いっぱいの75マイル/時(およそ120km/h)でひたすら走りました。
2時間ほどでツインフォールズに到着。 I-84を降りて93号ハイウェイ(州道)に入ります。
しばらく南に走り、スネーク川にかかる大きな橋を渡ると、すぐ右手にビジターセンターがあるので、休憩がてら立ち寄り、ツインフォールズ最大の景勝地、ショショーン滝(Shoshone Falls)への地図をもらいました。
ツインフォールズの市街地を抜けて、広大な畑の中の一本道を東へ。 そして、3マイルほど行ったところで脇道に入り、スネーク川の峡谷へ下っていきます。 細く曲がりくねった道を進んでいくと、どこからか滝の音が聞こえてきます。


道の終点の駐車場に車を止めて、ドアを開けたとたん、大きな滝の轟音に驚かされました。 崖っぷちの展望台に行ってみると、すぐ目の前に雄大な滝が見え、迫力満点です。 「西のナイアガラ」とも呼ばれるこの滝の大きさは、言葉でも写真でも伝えきれません。
しばらく滝の眺めを堪能した後、農道をさらに東へ2マイルほど行き、もうひとつのスネーク川の滝、町の名前にもなっているツインフォールズ滝(Twin Falls)にも立ち寄りました。
時刻は12時少し前。 ツインフォールズの一つ東寄りの入口からI-84フリーウェイに入り、まっすぐボイジーへ戻っていきました。

帰りは途中で食事&給油の休憩をとったため、2時間半ほどかかってボイジーへ。 いったんモーテルの部屋に戻ったあと、ジュリア・デーヴィス公園のほうへ散歩がてら取材に出かけ、動物園やディスカヴァリーセンターなどの写真を撮りました。

夕食は、さちこさんおすすめのステーキレストラン、Lock Stock & Barrelへ。 外から見ると、窓のない倉庫のような建物ですが、店内に入ってみると、ログハウス風の落ち着いた雰囲気です。 今日は長距離ドライブでだいぶ疲れたので、元気を取り戻すべく、12オンス(およそ340グラム)のステーキを注文し、おなかいっぱい食べました。

宿に戻る前に、夜景の写真を撮るために、州議事堂やディーポに立ち寄りました。
中心街の路上に車を止めて夜の街を歩いていると、1年前の記憶がよみがえってきます。
ああ、確かに私はここに住んでいたんだ、この町で1年間を過ごしたんだ…
ボイジーで過ごした日々を懐かしく思い出すと同時に、今回こうしてボイジーを再訪できたことを、あらためてうれしく思いました。

研究集会の合間をぬっての「取材」

ボイジー滞在3日目の26日、研究集会が始まりました。
ほとんどの参加者は、アメリカ国内かヨーロッパから来た人たちで、日本からは、私のほかに、昨年も参加した(→日記3月27日参照)筑波大学の塩谷真弘さんと、北見工業大学のStefan Geschkeさんが参加しています。
参加者は全体で25人ほど。 塩谷さんとStefanは一般講演をしましたが、私は、出発前に多忙だったこともあり、今回は講演をしませんでした。

初日のプログラムは午後4時頃に終わり、夜はTomekの家でパーティ。 参加者は5時45分にモーテル前に集合し、大学のヴァンで移動することになっていますが、私は別行動で、郊外のタウンスクエアモールへ買い物に出かけました。
モールに来た目的は、ガイドの取材もさることながら、「お土産を買うこと」です。 両親も姉も私の滞在中にボイジーを訪れたことがあり、どんなお土産物があるかを知っているので、今回の出発前に「ボイジーに行ったら○○を買ってきて」という「注文」を受けているのです。
とりあえず、モール2階の「Made in Idaho or USA」に行き、アイダホポテトのスープやハックルベリージャムなどを購入。 そのあと、1階のグリーティングカードの店「Hallmark」でカードを買い集めました。
さらに、母のリクエストで、Doubletree Hotelに寄り道して、チョコチップクッキー(→日記6月27日参照)を1缶買いました。
買い物を終えてTomekの家に行ってみると、もうパーティが始まっていました。 ほとんどの参加者が集まって、大賑わい。 10時頃まで、お料理とおしゃべりを楽しみました。

翌日の講演は、朝10時から始まって午後3時半頃に終了。 夜はMarionの家でパーティですが、私はまた例によって、パーティが始まる前に「取材」に走りました。
市街中心部の見どころの写真を撮ったあと、市街地北部のハイド・パークへ。 さらにその北のキャメルバック公園へ行ってみました。
ラクダのこぶのような小高い丘に歩いて登ると、西に傾きかけた日を浴びる市街地のビルの群が見渡せます。 さちこさんは、ここからの市街地の眺めがとても好きだったとか。 市街地の南のディーポや、テーブルロックからの眺めとはまた違った、新鮮な眺めです。

モーテルに戻り、塩谷さん、StefanとともにMarionの家に向かいました。 今夜のパーティも盛況で、夜遅くまで集会参加者の皆さんと過ごしました。

ボイジーでの仲間との再会

28日。研究集会の最終日、そして、ボイジー滞在の実質的な最終日です。
研究集会は今日の午前で終わり。 午後は、TomekかMarionがランチパーティやエクスカーション(観光)を企画するようですが、私には、それより大事な用がありました。 ボイジーに滞在していた頃の知人と会うことです。

集会終了後、塩谷さん、Stefanと3人で市街地に出かけ、Beaneryで昼食をとったあと、すぐ近くのテーターズでお土産物を物色。 そのあと、車でテーブルロック山に登りました。

2012年5月9日水曜日

月の砂漠


アブダビ

9/18〜9/24まで妹が日本からドバイへ遊びに来ました。
早いよ。私もドバイに来てからまだ2週間くらいなのにねぇ。

夫の転勤はほんとに突然の事なので、いつまでドバイにいるのかわからないし機会があれば早く来いという私の言葉を即実行。妹よ、さすが旅行会社勤務だ。

2012年5月8日火曜日

【Music Movie】世界遺産 イグアスの滝 World Heritage Iguaçu Falls


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2012年5月6日日曜日

再録:非常時のリーダーシップ─ハリケーン・カトリーナとBP原油流出事故の対応に学ぶ - つくる!仙台市若林区から県政をめざす渡辺勝幸のブログ



【非常時のリーダーシップ─ハリケーン・カトリーナとBP原油流出事故の対応に学ぶ】

1月号の『ハーバード・ビジネス・レビュー』は、

「本物のリーダー」養成講座

と銘打っています。

スターバックス、グーグル、ゼロックスのCEOの話が載っていて、
これもまた大いに勉強になります。

なかでも興味深かったのが、
元アメリカ沿岸警備隊司令官、タッド・アレンの

「非常時のリーダーシップ」

でした。

彼は、
記憶に新しい、ハリケーン・カトリーナや
メキシコ湾岸原油流出事故の際に

災害対策本部で全体の指揮を執ってきた人で、
ここではインタビュー記事として
掲載されているのですが、

非常時にリーダーはどのようにあるべきか、
多くの示唆を得られます。

まず、原油流出事故が起き責任者に任命されたとき、
これを軍事作戦として対処しようと
考えたのかという問いに対し、

タッド・アレンは、

「それはありえません」

と否定。


賞の種類は、ジョセフ·プリーストリーの勝利をした

通常軍隊では指揮系統が完全に統一されているが、
このように政府全体が対応を迫られている場合、

「必要なのは、各関係者がそれぞれ異なった権限と責任を持っているという事実を考慮しながら、一つの目的の達成に向けてみんなの能力を統合することです。指揮の一元化というよりも、努力の結集を図ること」

2012年5月5日土曜日

Canada_history


一万年前ころ 氷河期、シベリアと陸続きになっ ていたベーリング海峡を人類が渡 り、北アメリカ大陸に上陸。その後、今のカナダの地に最 初の人類が住みつく。カナダ先住民の起源。
AD1000年ころ ヨーロッパからバイキングが現在のカナダに上陸 (現在のニューファンランド・ラブラドール州)。しかし定住はせず。
16世紀-17世紀 イギリ スとフランスが北米大陸を植民地にするため進出。イ ギリスは大西洋沿岸とハドソン湾周辺を領土に。フランス は、セントローレ ンス川、五大湖、ミシシッピ川に沿って領土を拡大(1667 年の北米地図)。

「カナダ」の語源は先住民の言葉(ヒューロン・イロクォイ語)の「カナタ」。「カナタ」とは「集落」とか「村」という意味。先住民が自分たちの 住んでいるところを示して「カナタ」といったところ、探険家ジャック・カルチェは「カナタ」をその地域の名前と思った。

1763年 長年の 英仏戦争にイギリスが勝利。パリ条約により、フ ランスの北米領土(現在のカナダの中心地)はすべてイギリスに割譲。しかし、イギリスの支配 の下、現在のケ ベック州を中心に、多くのフランス系住民がそのまま居住を続けた
1776年 [米] アメリ カ合衆国建国。北米イギリス領東岸13州が大英帝国から独立。

その後、アメリカの独立に反対していた人たち(大英帝国に忠誠を 誓う人たち)などがアメリカから大量にカナダに移民。現在のカナダ領内においてイギリス系住民が激増 する。

1812-1813年 英米戦争。実態は、現在のカナダとアメリカ合衆国との間の戦争。アメ リ カ合衆国の領土的野心が戦争の背景に。しかし、カナダ(英国)は防衛に成功する。(この戦争で、アメリカ大統領官邸が炎上。その復興に際し、外壁に白いペ ンキを塗ったことから、その後、ホワイトハウスと呼ばれるようになる。)
1861-1865年
[米] アメリカ合衆国で南北戦争。リンカーン大統領率いる北軍が勝利。 アメリカ合衆国は分裂を免れ、一つの連邦国家を維持する。
1867年
カナダ 建国。7月1日、英領北アメリカ法が英国議会で成立し、北米にあったイギリス自治領がカナダ連邦として一つにまとまる。最 初は、オンタリオ 州、ケベック州、ニューブロンズウェック州、ノバスコシア州の4州で始まる(1867 年北米地図)。([日] この年、日本では「大政奉還」により徳川幕府が終焉。)

カナダ建国は、アメリカ合衆国と異なり、大英帝国からの独立を意味しない。また自治権獲得という意味でもない。北米のイギリス自治領(すでに自治権を与え られ ていた)が大連合して統一政府を作った時をカナダ建国としている。

カナダ建国(自治領大連合)の背景には、連合して強大なアメリカ合衆国に対抗する目的があった。大英帝国も自治領の防衛を自治領自身に任せる 政策に転換し、自治領の大連合を承認した。

2012年5月3日木曜日

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2012年5月2日水曜日

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