1971年12月 バングラデシュがパキスタンから独立。ク チビハール一帯はインドとバングラデシュの飛び地になる
Cooch Beharの詳細地図
Cooch Behar一帯の地図(1955年) なぜか飛び地はほとんど載っていません
東パキスタンとブー タンの間に「クチビハール」があります
でも国境に散在する飛び地はあまりに小さいのでこの地図には 出ていません
ところが飛び地でなくなったはずのバングラデシュには、現在もインドとの間に小さな飛び 地が200ヵ所以上もある。バングラデシュの北の端、インドのクチビハール州との国境地帯で、インド領内にバングラデシュの飛び地が95ヵ 所、バングラデシュ領内にインドの飛び地が129ヵ所。そのうち24ヵ所は飛び地の中の飛び地で、「バングラデシュ領内のインドの飛び地の中のバングラデ シュの飛び地の中のインド領」というわけのわからない場所もあれば、面積わずか50平方メートルしかない世界最小の飛び地もある。しかも自由に行き来でき る西欧あたりの飛び地と違って、本土と飛び地の間の往来は制限され、政府も飛び地に果たして何人住んでいる のか把握不能というありさまだ。
これらの飛び地が生まれたのは、インドとパキスタンが分離した際に、ヒンズー教徒の集落はインド領に、イスラム教徒の家や畑はパキスタ ン領になったから生まれた・・・のではない。イギリスの植民地だった時代から、東ベンガル州(現在のバングラデシュ)とクチビハール藩王国(現在のインド 領クチビハール州)との間の飛び地として存在していたのだ。
飛び地がグチャグチャできたわけ
チベットの面積は何ですか
むかしむかし、クチビハールの藩王(マハラジャ)と、ランプール(バングラデシュ領)の領主がギャンブルをして、エキサイトした2人は 領地を賭けて勝負した結果、領地がごちゃごちゃに入り乱れてしまった・・・という伝説があるが、さすがにこれは作り話。当時インド東部へ勢力を広げていた ムガール帝国が、クチビハール王国の3分の1を占領したが、その中の一部でクチビハール王に忠誠を尽くす地方領主があくまで居座り、この地域が1713年 の条約でムガール帝国に譲渡された後も、自らの領地から動かなかった。すると今度はムガール帝国の元兵士らがクチビハール側の土地を勝手に占拠し始め、の ちにムガール帝国に帰順した。こうして忠に厚いインド人兵士たちのおかげで両国の領土がゴ チャゴチャ入り組んでしまったのが飛び地の発端だ。
18世紀後半にイギリスがインド全体の植民地化に乗り出すと、ムガール帝国が獲得した土地は東インド会社直轄のベンガル州となり、クチ ビハール王のもとに残された土地はイギリス宗主下の藩王国としてマハラジャによる統治が続いた。当時は直轄領か藩領かという違いだけでどっちにしてもイギ リス領だし、住民たちの行き来は完全に自由だったから何の不便もなかった。日本でも江戸時代の藩の領地や天領(幕府の直轄領)は飛び地だらけだったが、住 民にとってはさして不便が無かったのと同じこと。
ところが1947年にインドが独立した際、イスラム教徒が多い東ベンガル州はパキスタンの一部として分離することになったが、クチビ ハール藩王国はマハラジャがヒンズー教徒だったのでインドに加わった結果、封建領主の境界線がそのまま国境 線になった。カシミールのように旧藩王国の領土を奪い合って核戦争を起こしかねないような対立を続けているよりは、飛び地だらけになっても 「歴史的な境界線」をそのまま国境にしたほうがよっぽどマシだが、地元の住民は大変だ(※)。
※イギリス植民地時代には、クチビハールと西ベンガル、アッサムの間にも約50ヵ 所の飛び地があったが、これらはいずれもインド領になった。住民は許可を得れば本土へ行くことができるが、面倒な申請手続きが必要となった。実際にこれらの飛び地に住む人は、ほとんど学校や病院には行けず、選挙に も行けない。国境を跨ぐ電線の敷設がままならないため、いまだに電気が引けない村も少なくないし、電話などの通信手段もない。電気がないから工場などは建 てられず、生活手段は昔ながらの農業か牛を飼うくらいしかできない。
飛び地には政府の役人が入れないから、税金を納めずに済むかわりに政府によるインフラ整備や開発援助もない。それどころか国勢調査が実 施できないから、両国の政府は一体飛び地に何人住んでいるのかも把握できずにいる。飛び地の人口は2万5000人から150万人までさまざまなことが言わ れているが、専門家の推測によれば6万5000人から7万人くらいらしい。
トップエンターテインメントに引用符
警察の目が届かないから飛び地の治安は悪く、山賊たちの格好の餌食になっ ている。バングラデシュ領内のインドの飛び地に住むヒンズー教徒は、周辺のイスラム住民とのいさかいが絶えず、多くの住民が身の危険におびえながら、細々 と農業を営む貧しい生活を続けている。家や畑を捨てて本土へ逃げ出した人も少なくない。
一方で飛び地に住むイスラム教徒は、男性が飛び地での生活に嫌気がさしてどんどん外へ逃げ出していくのに対し、家から出ることができな い女性が取り残されている。結婚しようにも周囲の村人は飛び地の女性には足元を見て高額な花嫁持参金をふっ かけるので、独身のまま過ごすか妾になる女性が多いという(※)。
※インドやバングラデシュでは、結婚の際に花嫁が「ダウリー」と呼ばれる持参金を 用意する風習があり、とてつもない高額を要求されたり、持参金が少ないと花嫁が焼き殺される事件が起きたりと、社会問題になっている。もともとは「隣の村とはご領主さまが違う」程度だったのに、いつの間にか国際政治や宗教対立に翻弄されて、クチビハールの飛び地住民たちの不幸は今も続い ている。
何とかしようとしたものの、かえって不便は増すばかり
これじゃいくら何でもヒドイ!ということで、インド政府とパキスタン政府(後にバングラデシュ政府)との間で、飛び地住民の不便を解消 するためのさまざまな方法について交渉は続けられてきた。
その方法の1つが、領土交換による飛び地の解消だ。1958年にインドと パキスタンの政府は領土交換に合意したが、インドへ移される飛び地のイスラム教徒やパキスタンへ移される飛び地のヒンズー教徒が反対したことや、インド最 高裁が「領土の交換には憲法改正が必要」と判断したことで実行できなかった。バングラデシュの独立を経て、74年に再び領土交換の案がまとまったが、イン ドからバングラデシュへ割譲される飛び地が69・5平方kmだったのに対して、バングラデシュからインドへ渡される飛び地は40・5平方kmだったので、 インド側の野党が猛反対して頓挫。その後領土交換による飛び地解消の目途は立っていない。
国境線の向こうにあ る畑へ出かけるにも厳しいチェックが・・・
"女性は本当にフェミニズムは何をしたいか"2つ目の方法は、飛び地と本土や相手国との通行規制を緩和し て不便を解消すること。インドとパキスタンは1950年に、役人や非武装の警官の飛び地へ立ち入りや、本土から飛び地への生活必需品の輸送についてのルー ルを定めた。しかし役人や警官の立ち入りは両国関係の緊張で1〜2年後には実行できなくなり、本土から飛び 地への生活必需品の輸送は月1回に制限されて、飛び地から本土へ販売する農作物などの輸送については規定されなかった。
1957年にはインドとパキスタンで貿易協定が結ばれて、飛び地とそれを取り巻く相手国側との1週間に2日の国境貿易が認められた。売り買いできるのは野菜、果物、卵、魚、薪、馬草、油、スパイ ス、お菓子、石鹸などの食料や日用品で、その量は「頭に乗せて運べるだけ」「1kgまで」などと細かく規制された。ところが、飛び地の住民が規則に従って 隣の村へ物売りに行こうとしても、国境を越えるにはパスポートとビザが必要だ。相手国の大使館も領事館もない飛び地でビザを取るには、まずは国境を越えて 本土の大都市まで足を運ぶ必要があるが、ビザがない以上そもそもビザを取りに本土へも行けないの だ。結局飛び地の住民は違法を承知でビザなしで国境を越えざるを得ず、国境警備兵による汚職が蔓延し、住民が警備兵に射殺される事件も数多く起きた。
1980年には飛び地を囲んでフェンスが作られ、指定の検問所を通らないと周囲と行き来ができなくなった。不法越境は減ったが、遠回り をして飛び地へ取引にやって来るのは中間業者くらいになった。飛び地の住民は業者のボッタクリ価格で売り買いせざるを得なくなって、貧しさに拍車をかける 結果に・・・。
★Tin Bigha回廊
3番目の方法は、飛び地と本土を結ぶ回廊を作ること。1996年にはイン ド領内にあるバングラデシュの最大の飛び地・Dahagram村およびAngorpota村(上の地図で緑の27と28。面積は合計18.68平方km) とバングラデシュ本土のPatgramとの間に回廊を設けて、自由に行き来できるようになった。
この回廊はTin Bighaという場所にあり、178m×85mの一角。「回廊に対するインドの主権と、インド国民が回廊内を通行する権利を完全に保障する」という条件 で、バングラデシュは回廊部分をインドから永久に租借。回廊内ではバングラデシュ本土と飛び地を結ぶ道と、インド領同士を結ぶ道(どちらも車がやっと通れ る程度の道)が交差し、周囲はフェンスで覆われ、四隅には「インドの主権」を確認するためにインド国旗がはためいている。
「自由に行き来」といっても、実際にバングラデシュ人が通行できるのは昼間の8時間だけで、しかもインド人と時間を区切って交互に通行 させる仕組み。インド人の通行タイムにはバングラデシュ側の門は閉ざされ、回廊両側の待合室 で次の通行タイムを待たなくてはならない。バングラデシュの警察や軍が通行するときは、事前にインド政府へ通告する決まりだ。
なんだ、全然不便じゃん・・・と思うが、これでも40年がかりの交渉でようやく実現したのだ。インドとパキスタン政府は 1958年に飛び地交換で合意し、Dahagram村およびAngorpota村はインド領に、Berubari村の南部(上の地図の47)はパキスタン 領になるはずだった。しかし、Dahagram村とAngorpota村は住民の80%がイスラム教徒で、Berubari村の南部は90%がヒンズー教 徒だったため、住民たちが猛反発して実施できずじまい。
71年にパキスタンからバングラデシュが独立した後、1974年と1982年の協定でとりあえずTin Bighaに回廊を設けることになったが、今度はTin Bighaの南側に位置するインドのKuchlibari村の住民たちが猛烈に反対しはじめた。Kuchlibari村からインドの他の地域へ行くには狭 い回廊部分を通らなくても、西側をまわって行けばいいように見えるが、Dahagram村とバングラデシュ本土(Dimla)の間は大きな川で、歩いてい くならKuchlibari村の人は回廊を通らなくてはならない。それにヘンな回廊など作ったら不法入国者がやって来るし、治安が悪くなって牛が盗まれ る・・・とインドの裁判所に提訴し、反対派の抗議活動では警察の発砲で死者まで出た。ティンビガ回廊が設置されると、怒ったインド人がバングラデシュの飛 び地を襲撃して、新たに67人の死者が出ている。
飛び地住民の不便解消のための措置が、周辺一帯の対立を煽ってしまったわ けで、両国では回廊を立体交差にすることや、Dahagram村とバングラデシュ本土(Dimla)の間に橋を架けることも検討したが、断念。こうしてで きた回廊で、バングラデシュ本土と結ばれた飛び地の住民は喜んでいるかと言うと、逆に不便にもなった。それまで住民は一番近いインドの市場に行く許可が取 れたが、回廊設置によってインド警察が国境地帯の警備を強化したので不可能になり、回廊を通って遠くのバングラデシュの町まで行かなくてはならなくなった という。しかもこの回廊、現地の治安や両国の政治状況によって、閉鎖されることもしばしばだとか。
両国合意で、いよいよ飛び地解消か!?
ところで、2011年9月にインドのシン首相がバングラデシュを訪問してハシナ首相と会談し、両国の国境画定と飛び地交換についての議 定書に調印した発表した。また現在1日12時間に制限されているティン・ビガ回廊の開放時間を(当初の8時間から延長されていた?)、24時間に延長する ことにも合意した。交換対象となった飛び地の住民は、インドかバングラデシュか国籍を選択できることになるという(※)。
※新聞報道では、交換される飛び地はインド 領内のバングラデシュ領が51ヵ所、バングラデシュ領内のインド領が111ヵ所の合計162ヵ所となっている。Cooch Beharの詳細地図では合計224ヵ所が記載されているが、この差は一体何なのだろう?例えば「インド領内のバングラデシュ領内にあるインド領 の飛び地」は交換する必要がない(そこはもとからインドだから)のでしょうが、これまでに「解決済み」の飛び地もあったのか、ひょっとして交換対象外に なった飛び地もあるのかどうかは不明。
となると、60年以上にわたって懸案だったクチビハールの飛び地問題も、いよいよ解決となりそうだが、実際の飛び地交換には両国国会で の承認が必要。58年や74年にも飛び地交換でいったん合意したはずなのに、インドの国会や最高裁が拒否して実現できなかったという「前歴」があるので、 ホントに飛び地が解消するかどうかは、最後まで気が抜けない感じがしますが・・・。
●関連サイト
Tin Bigha Corridor ティン・ビガ回廊の写真や地図があります(英語)
Welcome to Cooch Behar クチビハール州政府の公式サイト(英語)
運び屋 ティン・ビガ回廊の現地ルポ。現地では「TEEN BIGHA」と看板が出ているようだ。
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